第2部 士官大「天長節」新宿決戦のあらすじ

1970年代の東京。
全盛時代を謳歌していた暴走族やツッパリなどの若年アウトローたちから
「日本最強の高校」と恐れられていた高校があった。
朝鮮高校である。

「自分達からケンカは売るな。
 売られたケンカはかならず買え。
 買ったケンカは負けるな。
 勝って当たり前。負けたら学校には来るな」

これこそが硬派の教員や先輩達から脈々と受け継がれてきた朝高魂だった。
朝鮮高校は、ケンカでは絶対に負けることが許されないという伝統があったのだ。
実際、彼らのケンカは凄まじく、鬼気迫るものがあり、
とても若年アウトローが太刀打ちできるレベルではなかった。

しかし、朝鮮高校をまったく恐れない最強の天敵が満を持して彼らに襲いかかった。
戦前同様の尊皇愛国主義を賛美する右翼教育の牙城であり、
戦前の海軍の軍服にあやかった別名ジャバラを制服と定めて軍隊式教育を堅持する
「日本最強のバンカラ大学」と恐れられていた士官大だった。

「貴様ら日本男児は、日本刀だ。
 日本刀は、焼き入れれば入れるほど切れ味がます。
 士官大生は、日本刀同様、先輩からヤキを入れられることで強くなる」

この士官魂の洗礼に絶え続けた2〜3年生は、
身体はもちろん、顔を殴られることにも「免疫」ができ、ケンカを恐れなくなる。
実際、彼らのケンカも凄まじく、現役ヤクザも一目置かざるをえない強さがあった。

士官大は、戦前同様、4月29日の昭和天皇誕生日を「天長節」と崇めていた。
士官大の中でも最強と言われた応援団や右翼系格闘技同好会等の大和民族至上主義派は、
「天長節」を記念した「朝高狩り」を敢行した。
朝鮮高校生の通学路にあたる都心の主要ターミナル駅へと「進軍」したのだった。

この不穏な動きを事前に察知していた朝鮮高校側も、
対抗上、集団下校での厳戒態勢をしきながら、
いつ、どこで士官大と遭遇しても戦えるよう臨戦態勢でのぞんだ。

「左」の朝鮮高校対「右」の士官大。
いずれも最強を自負する両者は、
日本最大のターミナル国鉄新宿駅の山手線ホームで遭遇し、総勢200余名が激突した。
ここに「天長節・新宿決戦」が開戦したのだった。
山手線電車とホームは、リングと化し、3時間にわたって全面ストップ。
国鉄のダイヤを乱すのは、台風とストライキ、そして朝鮮高校および士官大だった。

翌日の大新聞の一面トップを飾り、国会でも審議された戦後最大の学生大乱闘事件として
今やアウトロー伝説化している「天長節・新宿決戦」。
参戦した朝鮮高校2年生(当時)の猛者、ハ・ミョンジョンが語り手となり、
激戦の顛末を回想している。